SPORTS

2020.07.06

トップアスリートだけの問題? スポーツの価値を守る アンチ・ドーピング教育はどうあるべきか

04.質の高い教育をみんなに

「アンチ・ドーピング」という言葉を聞いて、みなさんは何を想像しますか?「国際大会レベルの選手の話でしょ?」「日本のアスリートはドーピング違反者が少なくてクリーンだよね」「自分とは別の世界で、あまり関係ないかな」――多くの日本人が持っているそうした印象は、正しいのでしょうか。自身もトップアスリートとしてオリンピック出場を果たした経験を持つ室伏由佳講師は、大学生アスリートを対象とした実態把握調査を通して、「アンチ・ドーピング教育」の重要性に着目。アンチ・ドーピングについて正しい知識を持ち、考えることの大切さを、学生たちに投げかけています。

アンチ・ドーピングの研究は
アスリートが自ら行動するための“知識”を育む時代へ

2015年にロシアなどで国家ぐるみのドーピング騒動が巻き起こったこともあり、日本においてもドーピングに対する認識は広く定着してきました。現在、ドーピング検査規模の拡充、検体の分析能力なども向上していますが、残念なことに意図的な違反を完全に阻止するのは難しい状況が続いています。
スポーツの価値を守り、公平性を保つこの「アンチ・ドーピング」の活動は、世界共通のルールである世界アンチ・ドーピング規程(World Anti-Doping Code、以下「Code」と呼ぶ*1)に基づいて行われており、これまでアンチ・ドーピングは、国際的に活躍するトップアスリートを対象に「ドーピング検査により不正を見つけて取り締まる」ことに主眼が置かれてきました。こうした背景から、アンチ・ドーピングに関する国際的な研究も、多くは「なぜドーピングをするのか」というような不正をする“意識”といったドーピングの動機付け要因や、心理社会的側面あるいは環境要因から見たドーピング促進要因の予測に焦点を当てたものになっています。

*1 Code:世界中の人々が公平で公正なスポーツに参加できるよう、世界アンチ・ドーピング機関(World Anti-Doping Agency:WADA)が定める規程。アンチ・ドーピングの基本原則や、ドーピングの定義、アンチ・ドーピング規則違反のルールなどが記載されている。2003年に策定され、2021年に4回目の改定を迎える。

室伏由佳先生

一方で、アンチ・ドーピングについてアスリートが有する“知識”に関する調査は、国際的にもあまり多く行われてきませんでした。ですから、アスリートがアンチ・ドーピングについて「いつ頃、誰からどう学び、どの程度正確な知識を持っているのか?」「得られた知識がどの程度定着していて、実際にドーピングの予防行動に移されているか?」といった“知識”に焦点を当てた調査についてはまだ不十分な状況です。日本は違反者が少なく、自身は無縁と感じるケースも多いかもしれませんが、アスリートが自ら行動できるように適切な教育を行うためにも、アンチ・ドーピングの知識レベルについてアスリート全体の実態把握が必要でした。

大学生アスリートへの実態調査で
教育の有用性が明らかに

そうした背景から、アンチ・ドーピングの具体的な知識レベルを確認するため、全ての競技水準の日本人大学生アスリートを対象にテスト形式の実態把握調査を行いました。この実態調査の結果は原著論文にまとめ、2018年に国際誌で発表しています。大学生アスリートを対象にしたのは、自らが競技者であると同時に、将来コーチや学校の教員としてアンチ・ドーピング教育に携わる可能性も高いと考えたからです。

この研究では、複数の体育系大学に所属する1,143名に対して、これまでのアンチ・ドーピング教育経験回数や競技水準(地区、県、全国、国際大会)などの個人属性をたずね、世界アンチ・ドーピング機関(World Anti-Doping Agency:以下、WADA)のeラーニングシステム内で行われている「アンチ・ドーピング知識テスト」を用いて、個人属性と知識との関連性を明らかにしました。
その結果、①大学生のアンチ・ドーピング知識は全体的に低い傾向にある、②特に体内に摂取するものすべてに責任を持つ「アスリートの責務」や医学的側面の知識が乏しい、③教育経験回数と知識には有意な関連性があり、教育実施は有用性がある―という結果を得ました。特に③については、これまでのアンチ・ドーピング教育経験が2回以上のアスリートは、経験がないアスリートに比べて有意にテストの得点が高く、教育が重要であることが明らかになっています。
さらに、ドーピング検査を受けた経験はアンチ・ドーピングの知識に影響を及ぼさないことも分かりました。そして、競技水準によって知識の差があり、統計的な比較では県大会以外の水準で有意な差が見られ、国際大会レベルが最も知識が高かった一方で、全国大会レベル群は地区、国際大会レベルよりも知識が有意に低いことも見て取れました。全国大会レベル群はドーピング検査を受ける可能性が高く、この層への教育を強化する必要性が示されたと考えています。

これからのアンチ・ドーピング活動は
大学生がキーパーソンになる

また、最近の調査では、たとえドーピング検査機会が多い国際レベルのアスリートであっても、薬を使用する際に禁止物質が含まれていないかを必ず確認しているとは限らないことも分かりました。さらに、大学生アスリートと医療従事者を目指す学生のアンチ・ドーピングの知識を比較したところ、医療従事者を目指す学生の方がアスリートよりも知識が高いという調査結果も得ています。医療従事者を目指す学生は、もともと人の身体への関心が高いこともあるのかもしれませんが、特に、禁止物質の中で国際的に最もドーピング違反の報告数が多いアナボリックステロイド(筋肉増強剤の一種)の副作用をたずねる設問の正答率は、医療従事者を目指す学生が100%だったのに対し、アスリートは20%台と、大きな開きがありました。今後さらに調査を重ね、こうした実態をより詳しく把握し、大学生アスリートが何を知らないのか、何を教えればいいのかを明らかにしていこうと考えています。

 

2021年に改定されるCodeには、初めて教育に係る国際基準(ISE:International Standard of Education)が盛り込まれます。このことからも“規則違反を取り締まる抑止的な教育”から、“スポーツの価値を認識しドーピングを予防する教育”の重要性が国際的にも高まりを見せていることがおわかりいただけると思います。そして、ISEに明記される教育の対象には、トップレベルのアスリートはもちろん、それ以外にも医療関係者や教師などと並んで、「大学のスタッフと学生」が挙げられています。アンチ・ドーピングを大学での一般的な教育に取り入れ、まもなく社会に出て活躍する人たちに広く知識を得てほしいという意図を感じ、自分の研究と共通する点があると考えています。

「あの人たちの問題」ではないアンチ・ドーピング
スポーツに参加する全ての人に知識を

アンチ・ドーピング教育の対象といえば、これまではほんの一握りのトップアスリートが中心でした。2018年実施の調査でも、大学生アスリートのドーピング検査経験の割合は2.5%程度に過ぎません。つまり、ドーピングもアンチ・ドーピング教育も、ほとんどの人にとっては他人事で、いうなれば「あの人たちの問題」という感覚だったと思います。
しかし、スポーツを観て楽しむ人たちにとって、自分が応援し感動した試合で、実は意図的な不正が行われていたと知らされるのは、やはり悲しいことです。スポーツを心から楽しむために、観る側を含め、スポーツに参加する全ての人がスポーツの価値をベースとしたアンチ・ドーピングに関する知識を持ち、その意識をみんなで育むことを目指した活動が今、世界中で広がっています。

自身も女子ハンマー投げでオリンピック出場経験を持つアスリートだった

ただ、ドーピングには清算できていない過去の歴史がある、という点から目をそらすことはできません。ドーピングすることを指す「dope」という単語が英語の辞書に登場したのは1889年。ドーピングが蔓延し始めたのは1940年代で、1968年メキシコシティ・グルノーブル夏季・冬季同年開催のオリンピックからドーピング検査が行われるようになりました。しかし、WADA設立(1999年)や共通のルールであるCode策定(2003年)は、1940年代にドーピングが蔓延し始めてから約半世紀ほど後のこと。1980年代に旧共産圏で行われていたとされるドーピング違反など、国際規定のなかった時代の不正は、実態がつかめないままです。こうした過去の問題をどう評価し、どのように清算していくのか。残された課題があることを認識しながら、研究を進めていく必要があると考えています。

サプリメントによる違反が増加。
「日本はクリーン」と胸を張って言える?

「日本人アスリートはドーピング違反が少なく、クリーンだ」。一般的にはそう考えられていますし、日本のオリンピック・パラリンピック選手に、アンチ・ドーピング規定に違反した人が極めて少ないことも事実です。ドーピングに関して「クリーン」という印象は、東京がオリンピック・パラリンピック招致を勝ち取った要因の一つでもあります。

それでも私は今、「日本はクリーンです」と胸を張って言えるのか、少し疑問を持っています。
ドーピングと聞くと、多くのみなさんは、綿密に計算されたものだったり、特殊な器具を使っていたり、計画性や組織性が感じられるものを想像すると思います。しかし、近年増えているのは、それとは様相が異なり、知らずに飲んだサプリメントや栄養ドリンクに禁止物質が含まれていた、といった違反です。サプリメントは医薬品ではないため(*2)、全ての成分を表示する義務はありません。製造ラインで汚染物質の混入の可能性もあります。つまり、禁止物質が含まれていないか、厳密には確認できないのです。サプリメントによる違反は世界中で急増していて、日本の大学生を含むアスリートにも近年相次ぎました。

*2 サプリメントと医薬品
サプリメントは、いわゆる健康食品のうち、特定成分が凝縮された錠剤などのことを主に指します。通常の食事で蓄える量よりもはるかに濃度が高いものの、代謝に関連して消費されます。一方で医薬品は、低濃度で生体反応を調整するために競技力向上を目的とした使用は禁止されています。

 

関連リンク

アンチ・ドーピングとサプリメント〔日本アンチ・ドーピング機構ホームページより〕
https://www.playtruejapan.org/code/rule/supplement.html

アスリート自身が自信を持って
「クリーンです」と発信できるようになるために

薬やサプリメントによる違反から私が感じているのは、ドーピングに関して、アスリートが自分なりのルールで違反かどうかの線引きをしているのではないか、という不安です。
たとえば、AとBの2種類のコーヒーがあり、試合前に誰かが「Bを飲むと、Aより体にスイッチが入るよ」と言ったとします。AもBも「ただのコーヒー」であり、コーヒーに含まれるカフェインも、現行のルールでは禁止リストに含まれていません。あなたはどちらのコーヒーを選びますか?
どちらも本当に「ただのコーヒー」だとしても、アスリートがBを選ぶのは、ドーピングの領域に“意識”を一歩踏み入れていないか?私の講義では、学生に必ずこうした疑問を持ち、自問自答することが大切だと話しています。
コーヒーであれ、サプリメントであれ、摂取するものに、健康を取り戻すにとどまらない、競技的向上を期待する“エルゴジェニック効果”を期待しているとしたら、そのマインド自体が「グレーゾーン」ではないでしょうか?しかし中には、「コーヒーはOKだからBを飲んでいいだろう」というように、自分のルールで線引きをしているケースは存在すると考えています。

スポーツ健康科学部でオンライン授業を行う室伏先生。この日は「アンチ・ドーピング」をテーマに学生たちが活発なディスカッションを繰り広げた

これからのアスリートに求めたいのは、アスリート自身が「私は禁止物質を一切摂取してません。クリーンでスポーツに取り組んでいます」と自信をって自ら発信できるようになること。そのためには、正しい知識とマインド、摂取するものの成分をしっかり確認する行動が欠かせません。しかし今はまだ、そこが十分とは言い難いと私は感じています。その点をクリアできてようやく、「日本のアスリートはクリーンだ」と胸を張れると思うのです。
そのためには、ルールを学ぶだけでなく、いろいろな事例を交えた教育機会がとても大切になります。

世界共通のルールを日本でどう展開するか。
みんなで考え、発信してほしい

アンチ・ドーピング教育の研究については、将来、医学や薬学の先生とも連携し、より大規模な大学生アスリートの実態調査を行う計画です。現在は、小規模な調査を積み重ねつつ、より細かい知識を測ることができる新たなテスト(質問紙)の開発を進めています。アンチ・ドーピングは非常に変化の激しい分野ですが、ある程度の期間にわたり、国際的にも活用ができるような尺度を作りたいと考えています。

スポーツ健康科学部の教員向けに行われた“アンチ・ドーピング”に関するワークショップの様子

アンチ・ドーピング教育をどう展開するかは、その国のスポーツ環境や文化背景に大きく影響されます。たとえば日本では「日本のアスリートはクリーン」という印象が強く、それゆえに「クリーンなのになぜアンチ・ドーピング教育が必要なの?」と考える方もいます。Codeに示された世界共通のルールに従いつつ、そうした日本の状況に合わせた教育アプローチを考え、展開していく必要があります。
先日の講義で、学生から「日本人はなぜドーピングをする人が少ないんですか?」と質問を受けたのですが、むしろ、皆さんに「考えてほしい」と投げかけました。その結果、学生の講義レポートには「不正を許さない社会の雰囲気」、「武道の精神の影響」など、さまざまな考え方が述べられていました。“スポーツの未来”のためにも、自分と関係するものに取り組むだけでなく、学生はもちろん、社会のみなさん一人一人にその答えを探してほしいと願っています。
みなさんがアンチ・ドーピングについて考え、声を上げることが、ドーピングを含めたスポーツにおける不正や様々な問題を減らすことにつながり、スポーツの価値をより高めていく力にもなります。学生には、自分はどう思うのか、自分はどうしていくべきか、そしてどうスポーツの規範を守り自発的に動いていけるかを考え、積極的に社会に発信していってほしいですね。

Profile

室伏 由佳 MUROFUSHI Yuka
順天堂大学スポーツ健康科学部 講師

1999年4月ミズノ株式会社入社、ミズノトラッククラブ在籍(~2014年)。2004年アテネオリンピック女子ハンマー投日本代表。陸上競技女子ハンマー投の日本記録保持者(2020年5月現在)、女子円盤投の元日本記録保持者。2012年に競技を引退。
2006年中京大学大学院体育学研究科博士後期課程満期退学。2019年順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科博士後期課程修了。博士(スポーツ健康科学)。2019年より同大大学スポーツ健康科学部講師。研究分野はアンチ・ドーピング(スポーツ医学)、スポーツ心理学など。2018年同大学大学院在籍中に日本人大学生アスリートのアンチ・ドーピング知識の実態を明らかにし、国際誌に投稿、受理された。国内外の学術集会などにおいて、アンチ・ドーピング教育に関する研究発表を行っている。

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