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2020.02.13

アグリヒーリングの持つ可能性―医療と農業を融合させた「医福農連携」の実現へ

重い病気を患った際には、患者さんだけでなくその家族にも大きな身体的・精神的な負荷がかかってしまいます。そのさまざまな"辛さ"をやわらげ、有意義な日々を過ごせることをめざすのが、緩和ケア(緩和医療)の大きな目標です。順天堂大学大学院医学研究科緩和医療学研究室の水嶋章郎先生が指揮を執って研究を進めているのが、新たな分野とも言える「アグリヒーリング」。緩和ケアはもとより、人々の日常生活にまで深く携わるストレス緩和や全人的ケアを実現する手法として、今後高く注目されるだろう可能性を秘めた分野なのです。

新たな研究領域となるアグリヒーリングとは

水嶋「植物や自然と触れ合うとストレスが軽減されることは、これまでも経験則的に知られていました。今回、私たちが取り組むのは農業・農作業・収穫体験・自然環境の活用なども含め、従来の『園芸療法』の枠を大きく超えるもので、既存の考え方に収まりません。また、医療だけでなく介護や福祉などにも応用できる分野のため、私たち緩和医療学研究室が研究プロジェクトを進めることになりました。『アグリヒーリング』という言葉を使っているのは、『医福農連携』を図りたいという意図があるからです。」

緩和医療学は新しい分野で非常に範囲も広いため、プロジェクトチームもメディカル・ノンメディカルや文系・理系を問わず、幅広い人材で構成されています。

「私は大学で経営情報学を学び、6年前から順天堂大学大学院医学研究科の漢方先端臨床医学の研究員と緩和医療学研究室の協力研究員として、漢方、薬膳、アロマテラピーなどを研究しています。現場ではアンケートやサンプルなどの収集と測定・分析を担当しています。」

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研究メンバーの一人大学では経営情報学を専攻した胡愛玲協力研究員

千葉「私は大学院まで農業哲学や農業経済を学び、今も農業生産法人の代表として、企業や地域の農業コンサルティングを行っています。農業ビジネスに幅広く通じているため、アグリヒーリングの研究を進めるにあたって、緩和医療学研究室に協力研究員として迎えていただきました。」

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農業ビジネスを行いながら研究に取り組む千葉吉史協力研究員

山口「私は順天堂大学大学院医学研究科の漢方医学先端臨床医学に所属しています。前職は漢方薬品メーカーの研究員で、ストレスが脳の中枢に及ぼす影響を何十年も研究してきました。臨床では被験者にストレスをかけずに数値を測定する必要があります。そこで培った技術をアグリヒーリングの研究にも応用しています。」

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前職で培った技術をアグリヒーリングの研究に応用する山口琢児非常勤講師

桒嶋「私は、他の大学院生とともに、データ採取や分析とそのまとめをしています。他大学のグリーフケア※人材養成講座で水嶋先生の講義を受ける機会があり、スピリチュアルケア師の資格などを取得しました。私自身は工学部出身で以前は全く異なる業界で働いており、医療分野の水嶋先生、農業分野の千葉先生、ストレス分野の山口先生・胡先生とともに改めて大学院で研究に取り組むのは、非常に刺激的な体験です。」

※グリーフケア...大切な人、物、事柄の損失に伴って生じる悲嘆を抱える人に寄り添い、立ち直りや自立を支援すること。

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データ分析やまとめの役割を担う桒嶋裕司大学院生

水嶋「ここにいるメンバーの誰が欠けても研究は進みません。アグリヒーリングとは農作業や自然環境を広く活用し、全人的なケアを実現するもの。まずはこれまで経験則的に語られてきた農作業のストレス軽減効果を数値データとして明らかにすることから、プロジェクトが本格的に始動しました。」

 

最先端のストレス計測技術で園芸療法のエビデンスを実証

水嶋「ストレス軽減効果を実証するためには、被験者の農作業前・後のストレス値を計測し、作業後にしっかり下がったことを確認する必要があります。」

山口「これまでのストレス値計測で一般的だったのは、アンケート調査や採血による方法です。しかし、アンケート調査では数値分析ができませんし、採血を行うこと自体がストレスの要因となり、計測にブレが生じてしまいます。そこで着目したのが、唾液によるストレス計測の方法でした。唾液なら簡単に採取でき、安定性もあります。私たちは唾液を採取し、そこに含まれるコルチゾール、免疫グロブリン、αアミラーゼ、オキシトシン、クロモグラニンなどの数値を計測しました。これまで園芸療法の効果検証として脳波や自律神経などを計測した事例はありますが、被験者数も少ないですし、複合的な数値的実証はこれが初の試みだったようです。」

千葉「実証実験では、農業体験を提供している農場とその体験者に協力していただきました。1年目は約60人、2年目は約70人、3年目は約80人、計約210人の唾液によるストレス計測を行いました。」

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唾液によるストレス計測は被験者の負荷が少なく、精度の高い計測につながる。

山口「すると、最初の実験からストレスホルモン値の減少が確認できました。さらに、"幸せホルモン"と呼ばれる、オキシトシンの分泌が確認できたのです。個人差は当然ありますが、例えば週末農業などで普段から農作業を経験している被験者は初期ストレス値が低く、恒常的に農作業に関わることで長期的にゆるやかなストレス緩和効果を得られることが確認できました。また、全く農作業の経験がない被験者は1回の体験でストレス値が半減するなど、短期的に大幅な効果があらわれることも確認できました。」

「ご協力いただいた参加者を対象に心理分析を行ったところ、農作業の体験に満足していることがあらわれていました。これだけでもストレス緩和ができているかなと思いました。」

千葉「さらに2018年11月からNTTコミュニケーションズ株式会社とのプロジェクトも始まり、ウェアラブル生体センサ『hitoec』と『データ流通プラットフォーム』を活用して、アグリヒーリングによるストレス軽減効果を医科学的に可視化する測定システムの開発にも取り組んでいます。

また、これは長期的な計画ですが、自律神経データとストレスホルモン計測データの関連性についてのアルゴリズムの開発にも着手しています。さらにAI化が実現すれば、計測すればするほど精度が高まるシステムの実現へとつながります。そしてその先には、『データ流通プラットフォーム』を活用したストレスの可視化も見据えています。」

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ウェアラブル生体センサ「hitoec

水嶋「生化学的な分析、生理学的な計測に加え、アンケートなどを使用した心理学的なアプローチや社会学的な属性分析なども行いました。農作業を通したストレス軽減において、ここまで多角的な指標を計測した事例は世界的にも非常に珍しい。いろいろな分野のエキスパートで構成された研究室だからこそできたものでしょう。

ストレスが軽減されることが証明された今、今後はその因子がどこにあるのかを追究するため、各分野でさらに掘り下げた研究を行う必要があります。各分野の研究が進み、ストレス軽減因子が明らかになるにつれて、アグリヒーリングの具体的な活用方法もさらに多様な方向へと発展していくでしょう。」

 

多方面の可能性を切り拓くアグリヒーリングの未来

水嶋「アグリヒーリングの研究はまだ始まったばかりですが、研究内容について高い評価を受け、2019年度から3年間文部科学省の科研費をいただくことになりました。私はこの3年をひとつの目安と考えています。順天堂大学大学院としては、もう少し対象者や測定方法を広げて、研究を深めていきたいですね。」

山口「今までのストレス研究はアンケート調査が主流でした。ストレス研究は生理学や心理学の専門家がするものでしたが、私たちの研究により、そこに医学的観点が入りました。もちろん、ストレスで精神疾患にかかったら医療の範疇になりますが、アグリヒーリングはそれ以前の予防効果を持っていると感じます。」

千葉「経済学の視点から見ても、今までは定性分析しかありませんでしたが、今回初めて定性データと定量データを融合させることができました。ここ1、2年、農業経済分野においてもアグリヒーリングの注目が高まっています。」

水嶋「具体的な将来像を描くのはまだ早いかもしれませんが、医療の場でも介護や福祉の場でも全人的ケアの一助になると考えています。もちろん病気になった人だけでなく、病気にならないように行うものも含みます。例えば、病室やオフィスの壁面に緑豊かな映像を投影するのもそのひとつ。近年話題のプロジェクションマッピングやVRを活用して自然を疑似体験することで、『癒し』を提供することもできるでしょう。」

千葉「アグリヒーリングは五感を使うため、アロマテラピーや音楽、香りや色彩などから得られる『癒し』全てのものが含まれますね。」

水嶋「だからこそ、アグリヒーリングには"全人的ケア"という言葉がしっくり馴染みます。この研究は今後、"広く"も"深く"も展開できます。例えば、アグリヒーリングの効果には個人差がありますが、その要因を高い精度で明らかにすれば、一人ひとりに合わせたアグリヒーリングを実現できる。多分野の専門家の協力が必要ですが、将来的な可能性は多岐にわたります。そして、アグリヒーリングという新たな分野の研究を自由に展開できているのは、多彩な人材が集まるこの研究室ならでは。順天堂大学の研究姿勢に拠るところが大きいと感じています。」

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アグリヒーリングの手法は農作業に留まらない。

水嶋 章郎 教授
順天堂大学大学院医学研究科 緩和医療学
1984年3月 順天堂大学医学部卒業
1990年3月 順天堂大学大学院医学研究科修了
日本緩和医療学会 認定医(研修指導者)
緩和ケアの基本教育に関する指導者研修修了

山口 琢児 非常勤講師
順天堂大学大学院医学研究科 漢方先端臨床医学
1983年3月 北陸大学薬学部卒業
1985年3月 北陸大学大学院薬学研究科修士課程修了
2008年3月 金沢大学大学院医学系研究科循環医科学専攻医薬情報統御学修了
薬剤師

千葉 吉史 協力研究員
順天堂大学大学院医学研究科 緩和医療学
農業生産法人 美和リーフ代表
2002年3月 近畿大学農学部卒業
2004年3月 京都大学大学院農学研究科博士前期課程修了
2011年3月 京都大学大学院農学研究科博士後期課程単位取得満期退学

胡 愛玲 協力研究員
順天堂大学大学院医学研究科 漢方先端臨床医学・緩和医療学
2010年3月 上武大学経営情報学部経営情報学科卒業
2014年12月 アロマテラピー検定1級取得
2015年2月 薬膳・漢方検定合格

桒嶋 裕司 さん
順天堂大学大学院医学研究科 緩和医療学 修士課程
1975年3月 京都大学工学部卒業
2018年3月 上智大学グリーフケア研究所人材養成講座修了
2018年4月 順天堂大学大学院医学研究科入学
産業カウンセラー、スピリチュアルケア師、臨床傾聴士等を取得

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