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2019.07.23

すべては、東京で金メダルを獲るために。パラやり投げにかける元高校球児

先天性右手欠損のハンデがある山﨑晃裕選手は、元高校球児。2015年にパラやり投げに転向すると、わずか1年半後には世界選手権で5位入賞を果たした期待の星です。現在は、順天堂大学スポーツ健康科学部さくらキャンパスで職員として働きながら、東京パラリンピックでの金メダルを目標に練習を積んでいます。誰よりも考え、トレーニングに工夫を重ねる向上心の源とは? そして、もう一つの目標とは? 高みを目指す山﨑選手にお話をうかがいました。

アスリートとしての原点は高校野球

―高校時代までは野球少年だったとうかがいました。

野球チームに入ったのは小学3年生の時です。片手だということはそれほど深く考えず、友達との遊びの延長という感覚だったと思います。所属したチームでは監督やコーチに恵まれ、工夫しながら左手だけで捕球や送球、バッティングをする技術を磨きました。その後も中学、高校と健常者と一緒にプレーし、山村国際高校時代には投手も経験しています。

野球での一番の思い出は、高校3年の夏の県大会で活躍できたことです。3回戦の7回裏二死満塁、一打逆転の好機に代打で打席に立ちました。ここで打たなければ、高校最後の夏が終わるかもしれない。そんな追い込まれた状況で、逆転2点二塁打を打ったんです。その時、一つのことを一生懸命続ければ必ず報われる、と証明されたように感じました。僕にとって初めての大きな成功体験であり、あの経験が今もアスリートとして自分を高め続ける原動力になっています。
大学進学後は障がい者野球を始め、2014年には日本代表として世界大会にも出場しました。日本チームは準優勝。僕自身も主力として好成績を挙げることができ、優秀選手に選ばれました。

小学3年生の時に始めた野球。中学、高校と健常者と一緒にプレーし、投手も経験している。
2014年には障害者野球の日本代表として世界大会に出場。日本チームは準優勝し、山﨑選手は優秀選手に選ばれた。

-野球で世界の舞台に立ち、結果も残した山﨑選手が、未経験のやり投げに挑戦することしたのはなぜですか?

障がい者野球の世界大会が終わった後、野球を続けるべきか迷いながら毎日を過ごしていました。何を目標にすればいいのかを考えていた時、東京パラリンピックに向けてパラ競技への注目が高まり始め、「これだ!」と思ったんです。
僕の競技スポーツへのモチベーションは、「本気で練習した結果を、多くの人が注目する舞台で発揮したい」という“想い”。アスリートとして自分が成長するために、世界中が注目するパラリンピックに出場して、金メダルを獲りたい。そう考えて、やり投げへの転向を決断しました。2015年のことです。
パラリンピック競技の中でもやり投げを選んだのは、野球で培った技術や体力を生かせる種目だと思ったから。瞬発系の種目に必要なフィジカルはトレーニングで鍛えてきましたし、投げる動作にも慣れています。さらに、スピードや技術を高めれば、日本人が世界で勝てる可能性が高い種目だという思いもありました。

 

―パラ陸上のやり投げは、どのような競技ですか?

僕のF46クラス(上肢切断または機能障害)では、健常者と同じ長さ2.6~2.7m、重さ800gのやりを使います。ルールもほぼ同じです。投てき種目で唯一助走があるやり投げは、助走の流れ、リズム、タイミングなどのわずかなズレが記録を左右します。そこが競技の難しさであり、面白さや奥深さでもあります。僕自身は、「遠くに飛ばした方が勝ち」というシンプルさがとても好きです。

特注の義手に記録ノート
勝つための工夫とは?

―ウェイトトレーニングには特にこだわり、独特の工夫を凝らしているそうですね。

右手の不自由さを補うウェイトトレーニング専用の義手を作り、現在は「押す動作」用と「引く動作」用の2種類を使い分けています。
何よりも重視しているのは頑丈さ。義手は基本的に日常生活のための道具なので、数十キロの物を繰り返し持ち上げることに使う人なんて、そうはいません。最初は義肢装具士の方に「こんな義手、作ったことがない」と言われましたが、壊れるたびに作り直し、使いにくいところは改良を重ね、何度もやり取りをして作り上げました。きっと装具士の方を困らせてしまったと思うのですが…。自分に必要なトレーニングと必要な道具にこだわらなければ成長はないと思って、妥協せずに試行錯誤を重ねました。

専用の義手を使ってウェイトトレーニングに取り組む

―トレーニングや練習の成果を試合で最大限発揮するために、大切にしていることはありますか?

笑顔です。僕の場合、緊張でピリピリしているより、笑顔でいた方が良い記録が出るんです。笑顔になると心に余裕ができ、自分を俯瞰できるようになるからだと思うのですが、それに気付いてからは、緊張していても意識して笑顔を作るようにしています。

 

実は3年ほど前から、試合前の行動や気持ちの状態を細かくチェックし、すべてノートに記録しているんです。試合後にも、試合中のいつ頃、どんなことを考えていたのかを振り返り、メモを残しています。昨年インドネシアで開催されたアジア大会を振り返ると、1投目から脚がつってしまい、不本意な結果に終わりました。暑さで汗をかき、想定した以上に体から水分や塩分が失われていたことが原因で、体調管理の重要性をあらためて感じました。だから6月の日本選手権では、その時の記録を見返し、大会1週間前から水分や塩分の補給を徹底してチェック。その結果、優勝することができました。同じミスは、二度と繰り返したくない。そのために、失敗を振り返って、自分の引き出しを増やすように心掛けています。

スポーツ健康科学部がある、さくらキャンパスで学生課職員として働いている山﨑選手

―大学在学中から、順天堂大学で練習していたとうかがいました。現在は職員として学生選手とも一緒に練習していますが、順天堂大学の練習環境をどう感じていますか?

順天堂大学の卒業生であり、日本パラ陸上競技連盟強化委員の佐藤直人コーチに声をかけていただいたことがきっかけで、2016年から順天堂大学を拠点に練習するようになりました。順天堂大学には、陸上の他種目にもトップ選手が大勢いるので、トレーニングなどを見ていると参考になります。
今、順天堂大学で練習しているやり投げ選手は、卒業生を含め9人。やり投げは個人競技ですが、同じ競技の選手が周りにいると刺激になりますし、客観的にお互いを見て気付いたことを指摘し合えるので、面白いです。みんなで高め合える、良い練習環境にいると感じています。

さくらキャンパスの陸上競技場で

ハンデがあった方が「面白い!」

―これからの目標を教えてください。

まず、競技を始めた時に立てた目標の「東京パラリンピックで金メダルを獲る」こと。本気で闘うからには、その世界で一番になりたいんです。
もう一つの目標は、一般の大会に出場して健常者に勝つことです。昨年11月には佐倉市の選手権に出場しましたが、今年は千葉県の選手権に出場し、自分がパラ選手として、どこまでできるかを追求していきたいと思っています。
僕は、まだ誰もやっていないこと、前例のないことに挑戦するのが好きなんです。右手がないことはハンデですが、小さい頃からハンデがあった方が「面白い」と思っていました。ハンデがあるから、人一倍頭を使って考え、いろいろな技術を磨き、トレーニングをする。それで勝負に勝つと、すごく嬉しいんです。野球をやっていた頃も、そんな感覚だったような気がします。
将来は、自分が努力してきたこと、達成してきたことを世の中に発信し、同じ境遇にある子どもたちに希望を与えられる選手になりたいと思っています。そのためにも、まずはパラリンピックで結果を残したいです。

 

 ―高校野球は夏の甲子園に向けて地方予選が始まっています。先輩として、高校生のみなさんにメッセージをお願いします。

高校時代の練習は本当に厳しく「野球を辞めようか」と毎日のように思っていました。それでも、苦しいことに耐えて頑張り続けた結果、最後の夏に逆転二塁打を打つことができた。その経験があるからこそ、その後同じように苦しいことがあっても、もう少し頑張ってみようと思えるようになりました。ですから、金メダルを目指している今も、甲子園を目指していた高校生の時と同じような感覚でいるんです。
苦しい練習の経験も、その後の人生の財産になります。努力を続ければ、きっと最後にいいことが待っているはず。どんなことでも、諦めずに頑張ってほしいと思います。

Profile

山﨑 晃裕 AKIHIRO YAMAZAKI
順天堂大学 さくらキャンパス学生課 職員
パラ陸上やり投げ(F46)

埼玉県出身。山村国際高校では投手や外野手で活躍し、東京国際大学に進学。障がい者野球の世界大会では日本代表の「1番レフト」として活躍し、準優勝の立役者となった。2015年にパラやり投げに転向し、2017年の世界パラ陸上選手権では5位入賞を果たした。2018年には60m65の日本新記録をマークし、日本パラ陸上選手権では初出場以来4連覇中。2018年より順天堂大学職員。

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