PICK UP!

2017.08.14

日本の女子マラソンの普及と躍進に貢献 <スペシャル対談>

順天堂大学体育学部(現:スポーツ健康科学部)で教鞭をとり、山田宏臣氏(*1)、小出義雄氏(*2)、澤木啓祐氏(*3)ら数々のトップアスリートを育てただけでなく、日本陸上競技連盟の幹部として、日本の陸上競技界の充実・発展に貢献し続けている帖佐寛章先生。順天堂大学の教員時代や日本陸上競技連盟でのお話をはじめ、これからの順天堂に期待することなどについて、本学陸上競技部駅伝監督の長門俊介特任助教が話をうかがいました。

恩師の誘いで順天堂大学に

(長門):帖佐先生が順天堂で教員をされることになられた“きっかけ”は何だったのですか?

(帖佐):僕が順天堂に来たのは、昭和31年。当時はまだ現役の中長距離選手だったんですが、東京教育大学(現:筑波大学)時代の恩師でもある故 野口源三郎先生と故 久内 武先生(本学名誉教授)の強いお誘いを受けて、体育学部の助手として順天堂に赴任しました。実は、私の姉も弟も順天堂医院で産まれていたので、順天堂とは縁があったんです。だから、両親にも特別な思いがあったようで、順天堂で働くと伝えたら、とても喜んでいました。

 

*1 山田宏臣氏:元男子走幅跳日本記録保持者。1964年東京五輪、1968年メキシコ五輪に出場。
*2 小出義雄氏:マラソン・中長距離選手の指導者。有森裕子さんや高橋尚子さんなどトップアスリートを育成。順天堂大学客員教授。※参考:スポーツの舞台で輝く vol.1
*3 澤木啓祐氏:1968年メキシコ五輪、1972年ミュンヘン五輪に5000m、10000mで出場。7種目日本記録樹立、また更新。1973年より順天堂大学で指導し、箱根駅伝では4連覇を含む9回の総合優勝を果たす。順天堂大学名誉教授
帖佐寛章先生

陸上競技部監督として果たした箱根駅伝・インカレ初優勝。“名門陸上競技部”の礎を築く

(長門):体育学部に教員として勤めて程なくして、陸上競技部の監督にもなられていますよね。当時の陸上競技部はいかがでしたか。

(帖佐):赴任した時は、僕自身、現役の選手でもあったから、陸上競技部の監督をすることになるとは思っていなかったんです。当時、体育学部の学生は4学年合わせても約100人弱程度で、体育学部のあった習志野キャンパスに関しては、手作りの300mのグラウンドがあるだけでした。陸上競技部の部員も37名しかいなかったし、練習を見ていても、まるで中学生レベル。部活動や競技に向き合う彼らの姿勢にも甘さがあったから、僕は監督になってまず初めに、4年生2人を除いた全部員を一度退部させたんです。そして、部活動を本格的に始めるために部則を作り、それを理解したうえで入部できる学生を改めて募ってみたんです。37人いた部員は15人にまで減ったけれど、そこで集まった部員たちは競技にも真面目に取り組んでくれるようになりました。これが、僕の陸上競技部監督としてのスタートです。

現役時代の帖佐先生(中央)。1953年の日本陸上選手権では800mと1500mで優勝した。

(帖佐):部員が集まると、今度はこの陸上競技部を強くするために、良い学生を獲ろうと勧誘にも取り組みました。当時、学部長をされていた東 俊郎先生(スポーツ医学者)も、学生時代にはボートの選手をしていたこともあってスポーツへの造詣も深く、「いい子がいたら、引っ張ってきなさい」と後押ししてくれたんです。澤木啓祐君の勧誘なんて、本当に大変でしたよ。澤木君は、高校時代、1500m、5000mでダントツに強かったから、高嶺の花でね。でも、澤木君が参加した強化合宿に指導者として参加したことがあって、彼が将来指導を希望する指導者に僕の名前を挙げてくれていることを知ったんです。それで思い切って勧誘を決めたんですが、勧誘しているうちにのめり込んでしまって。澤木君を訪ねて大阪まで全て自費で16回も行きました。しかも、新幹線が無い時代です。でも、そんな地道な取り組みと、部員みんなの頑張りのおかげで、監督就任10年目の1966年には箱根駅伝で初優勝、1969年には日本インカレでも初優勝することができました。日本インカレでは、その後16回連続優勝を達成し、これまでの優勝回数も27回にのぼります。こうして順天堂は、名門陸上競技部と言われるようになったんです。この16回連続優勝を破る大学は出てこないでしょう。そして日本一を達成すると、今度は日本陸上競技連盟(日本陸連)とのかかわりも増えるようになってきました。

日本陸連の専務理事時代に、中・長距離ランナーの育成を目指して「全国女子駅伝」を創設。

(長門):帖佐先生は、日本陸上競技連盟で強化委員長、専務理事、副会長を歴任され、日本の陸上競技界を牽引されてきました。日本陸連でのお話をお聞かせいただけますか?

長門俊介先生

(帖佐):1979年、日本陸連で専務理事を務めていた時に、世界で初めて国際陸上競技連盟が公認する女子マラソンとして「東京国際女子マラソン」が誕生しました。でも、当時、日本の女子選手には800m以上の経験者がいなかった。マラソンをしていた人がいても、それはアマチュアの人たちで、国内で約20人ほどしかいなかったんです。それでも国内で選手を集めて実際に大会が始まると、第1回大会では、主婦ランナーの村本みのる選手が7位に入賞したものの、2回目以降、上位はすべて外国人選手で占められてしまいました。当時、日本のレベルと世界のレベルでは、時間にして20分も違っていたんです。大変な差ですよね。それでも、世界で初めての女子マラソン公式大会ということもあって、「東京国際女子マラソン」はメディアからも人気を得ましたが、関係者内では、日本がここまで弱いのならしばらく見合わせるべきではないかという意見も出ていました。そんな時に、当時の青木半治会長から何か良い手はないかと相談を受けて提案をしたのが女子駅伝です。中・長距離ランナー育成のためのステップとして、まずは駅伝だと考えました。こうして、1年遅れて1983年に京都で第1回「全国都道府県対抗女子駅伝競走大会」が開催されることになったんです。

 

正直なところ、開催までの道のりは簡単なものではありませんでした。スポンサーを獲得したり、放映権についてNHKと直接交渉したり、警察との交渉や各都道府県から長距離選手を集めたりと大変でしたよ。でも実際に大会が行われ、それがNHKでテレビ放映されると、多くの人から関心を集めました。テレビ視聴率も1983年の第1回大会で26%を超し、第2回大会には36%を超すまでになったんです。こうして女子駅伝ができたことによって、その後のオリンピックメダリストとなる有森裕子選手(*4)や高橋尚子選手(*5)も育つことになりました。彼女たちもこの女子駅伝に出場し、長距離ランナーとして力を付けていった選手なんです。

その一方で、東京国際女子マラソンについて報告書をまとめ、日本陸連から国際陸連経由で国際オリンピック委員会(IOC)に提出することもしました。これによって1984年のロサンゼルス・オリンピックで、女子マラソンが正式種目として採用されることになったんです。このタイミングで採用されていなかったら、日本の女子の長距離の育成はさらに遅れ、有森選手や高橋選手のようなメダリストは育っていなかったと思っています。

 

*4 有森裕子選手:1992年バルセロナ五輪女子マラソンで銀メダル、1996年アトランタ五輪では銅メダルを獲得。
*5 高橋尚子選手:2000年シドニー五輪女子マラソン金メダリスト。

重点競技の強化で、物心両面の支援を。指導者同士が互いに研鑽し、活性化し続ける組織であってほしい。

(長門):最後に、帖佐先生が順天堂大学の今後に期待することについて教えてください。

(帖佐):すべての運動部が総合的に日本や世界のレベルに到達してくれるのが理想だけれど、そう簡単にはいかないですよね。だから、数多くある競技の中で「重点強化」が大事だし、そのためには、物心両面の積極的な支援が必要なんです。この場合の「物」は施設などの競技環境で、「心」は指導者。その両方で支援していくことが大切ですよね。特にスポーツの世界では芸術の世界と同様に授業以外の放課後が大事で、本格的にその競技をマスターしようと思ったら、授業以外に費やす時間が大きな意味を持ってきます。今、さくらキャンパスでは陸上競技場も改修され、新しい体操競技場も出来ている。学生たちが競技に打ち込むための施設環境が完備されつつあり、大いに期待しています。

それから、良い指導者の育成も大切ですよね。スポーツの世界では、過去に一流選手を育成した実績があろうとなかろうと、指導者個人の選手時代の実績がないと指導者として評価しない風潮の競技団体もありますが、そういう考えではいけないと思います。順天堂には広い視野を持って、優れた指導者を育成してもらいたいと思っています。そして、スポーツ健康科学部の中でも順天堂出身者と他大学出身の指導者の両方がバランスよく存在し、お互いに交流・研鑽しながら活性化し続ける組織であってほしいと願っています。

2010年には国際陸上競技連盟(IAAF)より「シルバー勲章」を授与された

(長門):帖佐先生、どうもありがとうございました。

Profile

帖佐 寛章 CHOSA Hiroaki
公益財団法人 日本陸上競技連盟 顧問/順天堂大学スポーツ健康科学部名誉教授

東京教育大学(現:筑波大学)在学中に日本陸上競技選手権大会800m、1500mで優勝。箱根駅伝に出場した実績も持つ。卒業後は、順天堂大学で教鞭をとり、陸上競技部監督として山田宏臣氏、小出義雄氏、澤木啓祐氏ら数々のトップアスリートを育てた。これまで、オリンピックコーチ・監督、日本選手団副団長、神戸ユニバーシアード日本選手団長、日本陸上競技連盟の強化委員長、専務理事、副会長をはじめ、日本体育協会副会長、国民体育大会委員長などを歴任。国際マラソン・ロードレース協会では、会長として世界におけるロードレース界の充実・発展に貢献し、1986年11月に藍綬褒章を受章、2010年には国際陸上競技連盟(IAAF)より「シルバー勲章」を授与されている。

この記事をSNSでシェアする

Series
シリーズ記事

健康のハナシ
アスリートに聞く!
データサイエンスの未来

KNOWLEDGE of
HEALTH

気になるキーワードをクリック。
思ってもみない知識に
巡りあえるかもしれません。