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2025.05.09
順天堂リレーエッセイ【Jバトン】第11回 順天堂医院改築、DX、AI導入への思い

リレーエッセイ「Jバトン」は第11回を迎えます。前回は、岩渕 和久 薬学部長に、薬学を取り巻く環境の変化と薬学部について綴っていただきました。 今回は、桑鶴良平 順天堂医院長(「順天堂だより」336号掲載当時)にバトンが渡り、順天堂医院改築、DX、AI導入への思いについて記してただきました。
1993年10月、順天堂医院の1号館がオープンしました。当時の順天堂医院2号館から新築の1号館に歩いてきた私は、1号館1階の患者さんが2号館との連絡歩道橋付近にまで溢れていることに驚きました。人混みを避けながら1号館に入りそこに立錐の余地がない事を確認し、急いで地下一階の読影室に入りました。人混みから離れてほっとしたものです。まだ電子カルテは導入されていませんでしたが、一気に病院の運用を新しくするのは大変だ、と感じました。

2001年に西葛西の日本私立学校振興・共済事業団の「東京臨海病院」の立ち上げメンバーに加わりました。西葛西駅前のビル内の開院準備室で、人事、建築、高額医療機器購入、そして電子カルテ構築等に携わりました。順天堂大学、東邦大学、日本大学、日本医科大学から医師を選抜し、東京臨海病院の前身の病院である下谷病院のメンバーと一緒に、1年間必死で400床の新しい病院の立ち上げ準備を行いました。短期間で病院を立ち上げるかなり大胆な計画で、特に電子カルテの導入は日本で4番目ということもあり試行錯誤で進んでいき、メンバー皆で力を合わせて何とか開院に間に合わせることができました。
東京臨海病院が 2002 年 4 月に開院した時は、患者数が事前の混雑予想より少なかったのは助かりました。患者数が多くなかったのは、①やや偏在した位置にあり、 ②知名度のあまり高くない病院だったためと思われます。電子カルテに関しては、物流データの構築が間に合わず入力できないなどの積み残しがあり、開院後に電子カルテ、物流、医事データの連携を行いました。

2004年に東京女子医科大学病院に移り、一時電子カルテから少し距離を置きました。当時構築していた独自の電子カルテの導入が難しいと個人的に判断したことと、画像診断、カテーテル治療の人手が足りないため、電子カルテ構築に関与する時間がなかったからです。その後、東京女子医科大学病院の電子カルテの開発は止まり、既存の電子カルテ会社の電子カルテを入れる事になりました。
2009年に縁あって順天堂医院に戻ってきました。カテーテル治療を行い病棟に回診に出向くと、開院後15年以上が過ぎ院内が大分経年劣化し、病室も狭く感じましたが、2016年にB棟が竣工すると、1号館との設備の違いは歴然となりました。
2024年に院長になり、院内状況把握のため歩き回りました。開院当時は象徴でもあった1号館のアトリウムが無ければ外来も入院ももっとゆったりと活用できるな、などと思ったのを覚えています。2025年になり築32年になった1号館の建て替えについて、1号館周囲の地図を見ながらこの場所が良いだろうとか、こういった活用が良いだろうとかICTやAIをどのように入れるか等、勝手に想像をしているこの頃です。