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2025.03.31

コンピュータの中に"デジタル脳"を構築 ~デジタル技術と脳神経科学の融合~

2024年からスタートした「脳神経科学統合プログラム」は、日本政府の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」にもとづいて推進されている大型研究プロジェクトです。このプロジェクトの重点課題を担当する健康データサイエンス学部講師の孫哲先生は、「デジタル空間に脳を再現する」という壮大なテーマを掲げて"デジタル脳"の構築に挑んでいます。データサイエンスを用いた実践的な研究を通じて、未来の医療や健康をリードしていきたいという孫先生に、現在注力する研究や学生に期待することをお話しいただきました。

“デジタル脳”の構築を目指す最新プロジェクト

――今もっとも注力しているという「脳神経科学統合プログラム」とはどのような研究分野なのでしょうか。
2024年から始まったAMED(日本医療研究開発機構)の「脳神経科学統合プログラム」は、近年急速に進化している計算科学の技術を使って、生命科学や医学の課題を解決しようというものです。日本では、現在、2011年当時世界一の処理速度を誇ったスーパーコンピュータ「京」より100倍も性能が高い「富岳」が運用されています。このプログラムでは、富岳をはじめとした複数のスーパーコンピュータからなるデジタル空間の中に、ヒトの脳を含んだシミュレーションモデルを構築しようとしています。

孫 哲 先生

――このプログラムの中で、孫先生はどのような役割を担っているのですか。

このプログラムはいくつかの重点課題により構成されていて、中でも特に注目を集めている「“デジタル脳”の開発」という課題の代表者を務めています。“デジタル脳”とは、脳の未知の領域を探るための新たなツールとなるものです。具体的には、神経回路の働きや大脳皮質の情報処理の仕組みを理解するために、計算論的神経科学によるデジタル技術を駆使して脳の構造や機能を再現するものです。さらに私は、「富岳」成果創出加速プログラムにも分担者として参画しており、両プロジェクトの連携によって、より高精度な脳のシミュレーションモデルの構築を目指しています。スーパーコンピュータの進化により、数十億ものニューロン*1活動を再現する脳のシミュレーションも可能となりましたが、ヒトの脳には860億ものニューロンがあり、さらに数百種類のタイプに分類されます。それだけ複雑な構造を持ち、膨大な量の情報を処理している脳と同じような機能を備えたデジタル脳となると、そう簡単には再現できません。そこで私たちの研究チームでは、動物から収集した大規模な脳活動データと行動データを基に、記憶と学習という機能にフォーカスしたデジタル脳モデルの構築を進めています。このモデルでは、単にニューロン活動を再現するだけでなく、脳の情報処理機能を解明し、さらなる応用の可能性を模索しています。

 

*1ニューロン…生物の脳を構成する神経細胞で、情報処理と情報伝達に特化した細胞

脳シミュレーションで未来の医療が変わる

――デジタル脳によって、どのようなことが実現できるのでしょうか。
まず、デジタル脳を通じて脳の情報処理や学習メカニズムを解明することは、人工知能(AI)の進化に大きく貢献します。私たちの研究成果は、AIがデータをより効率的に学習し、より汎用性の高いタスクに適応できるようにする基盤技術の開発に役立ちます。特に、脳が複雑な情報を処理する仕組みを模倣することで、AIの柔軟性や応用範囲を大幅に広げる可能性があります。もう一つの重要な応用として、脳疾患の理解を深める取り組みを進めています。他の研究室や医療機関と協力し、アルツハイマー病やパーキンソン病などの脳神経疾患の発症メカニズムや進行過程をシミュレーションすることで、疾患の予防や治療法の開発を目指しています。


――医学の基礎研究のほか、臨床応用ではどのような可能性が考えられますか。
本プログラムには放射線科や脳神経内科などの臨床医も多数参加していますので、臨床現場での展開はかなり意識しています。
その一つとして、患者さんごとの個別のデジタル脳モデルを構築し、治療シミュレーションや予後予測などに役立てることを考えています。例えば脳腫瘍の手術を行う際、切除範囲が広すぎれば脳の重要な機能が損なわれますし、逆に切除範囲が狭すぎると腫瘍が残って再発するリスクが高くなります。脳モデルを用いることで、そういったことを事前に確認し、適切かつ安全な切除範囲を判断したり、手術後に残る機能の予測などに役立てます。そのために、健康な状態の脳だけでなく、放射線科から提供してもらった脳画像データを使って、脳神経疾患ごとの脳モデルも作ろうとしているところです。また、脳とコンピュータを直接接続して脳の活動を機械で読み取る技術「ブレインコンピュータインターフェース(BCI)」への応用展開も想定しています。BCIは脳疾患の症状改善やリハビリテーションなどへの応用が期待されている技術で、私たちが構築しようとしている脳モデルによって学習や記憶のメカニズムが明らかになれば、その仕組みを組み込んだより高精度なBCIが実現するはずです。

地域社会に貢献する研究と医療データを統合する研究

――デジタル脳以外の研究で取り組んでいることはなんですか。
1つは、浦安市における高齢者の運動データの収集と分析を行う「順天堂大学フレイル・ロコモ予防ドッグ10年プロジェクト」です。このプロジェクトでは、浦安市の高齢者を対象に、10年にわたって歩行データや身体運動データを収集し、フレイル*2の状況を定量的に分析していきます。さらに、高齢者の歩行中の姿勢や軌道を計測したデータの分析により危険なサインを見つけ出し、転倒予防に役立てることなどを検討中です。この取り組みは、医療・健康分野の専門知識とデータサイエンスの力を融合させたものであり、地域社会や行政とも密接に連携しています。この活動を通じて、生活習慣や運動習慣が健康に与える影響を科学的に解明し、その成果をもとにより効果的な健康増進策を提案しています。

 

*2フレイル…加齢による心身機能の低下や虚弱な状態。

――ほかにはどんな研究を行っていますか。
マルチモーダル医療*3データの処理手法を開発しています。現代の医療データは膨大で、CTやMRIなどの診断画像、遺伝情報、カルテの臨床記録など多様です。この複雑なデータを効率的かつ正確に処理するために、生成AIを含む新しいデータサイエンス手法を開発しています。この研究では、異なるデータ間の情報を統合し、より正確な診断や治療支援を可能にするためのアルゴリズムの設計を進めています。

 

*3マルチモーダル医療…医療の現場で複数の情報を統合して病状を判断するアプローチ。

――デジタル脳を含むこれらの研究プロジェクトにおいて、順天堂の強みはどのように発揮されていますか。
やはり臨床データが多数集まることです。順天堂大学が日本医学放射線学会や富士フイルムとともに構築した「画像診断ナショナルデータベース(J-MID:Japan medical imaging database)」には、国内の医療機関から集められた3億枚以上の医用画像があり、その中には脳画像も含まれています。それらの医用画像は、脳疾患モデルの構築や脳機能の解明にもつながる貴重なデータとなります。また、データサイエンスと医学の専門家が協力し合って研究できる環境であることも重要です。臨床現場にいて医学知識の豊富な医師たちと、スーパーコンピュータを扱うことができる私たちが一緒に研究を進めることで新たな研究テーマに挑むことができています。

今後の学生の成長とスーパーコンピュータの進化に期待

――健康データサイエンス学部の学生たちにはどのように学んでほしいですか。
まず、プログラミングスキルの習得は非常に重要です。データサイエンスや人工知能の分野では、単に授業を受けるだけでなく、自主的に学びを深めることが大切になります。例えば、自分で小さなプロジェクトを立ち上げたり、オープンソースのコミュニティに参加するなど、実践的な経験を積むことでスキルがより磨かれます。データ分析は結果を共有し、他者と議論して初めて価値を生み出すので、コミュニケーション能力も不可欠です。プレゼンテーションやディスカッションの機会を積極的に活用し、自分の意見を論理的かつ明確に伝える力を養う必要があると思っています。さらに、データサイエンスやコンピュータサイエンスの専門知識を医療・健康領域の知見と組み合わせることができる人材を目指してほしいです。これにより、将来的には医療・健康関連産業で革新的な技術やサービスを生み出す可能性が高まります。

最後に、社会的な視野を持つことが重要です。データサイエンスは現代社会でますますその重要性を増しており、多くの分野で革新的な解決策を提供しています。この学部・研究科で学んだ知識とスキルを活かして、社会に貢献できる人材へと成長してほしいと思います。


――最近注目しているテクノロジーはありますか。
スーパーコンピュータのさらなる発展に大いに期待しています。従来型のスーパーコンピュータをこれ以上高性能にするには、半導体サイズの限界というボトルネックが存在していますが、新しいタイプのコンピュータの登場もありえます。中でも特に注目しているのは量子コンピュータです。いつ、どれくらいの能力で応用できるかはまだわかりませんが、量子コンピュータが実用化されれば従来機の数百万倍の計算能力を持つはずなので、数万人の脳のシミュレーションも可能になります。計算科学のさらなる発展はデジタル脳研究にとってもかなり重要なファクターですから、学内の量子コンピュータ研究者ともディスカッションを重ねています。

――研究者としての目標や夢があれば教えてください。
実現できるかどうかはわかりませんが、スーパーコンピュータの中に人間のように思考できるデジタル脳を実現したいです。今のAI開発には二つの方向性があり、人工的につくり出したアルゴリズムで強いAIを作ろうという考え方と、脳を模倣する形で人間社会のさまざまな領域で応用できる強いAIを作ろうという考えです。どちらが正しいとはいえませんが、私は後者に興味があります。コンピュータサイエンスと脳神経科学を組み合わせることで、見えなかったものが見えるようになる。それが研究をしていて一番面白いと感じることです。

Profile

孫 哲 Sun Zhe
順天堂大学健康データサイエンス学部 講師
2017年横浜市立大学大学院生命ナノシステム科学研究科博士後期課程修了。博士号(理学)取得。理化学研究所脳総合研究センター、同研究所情報システム本部計算工学応用開発ユニット、東海国立大学機構名古屋大学大学院医学系研究科メディカルAI人材養成産学協働拠点などを経て、2023年順天堂大学健康データサイエンス学部にて助教に就任。2024年より現職。専門は、データサイエンス、ハイ・パフォーマンス・コンピューティング、計算論的神経科学。

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